北海道が開かれ150有余年、一世紀半の歳月が流れました。
日本の最北端にあり、周りは海に囲まれている島国北海道。
本州と自由に行き来が出いない中で、明治に入るまでは道路らしい道路もありませんでした。
今の北海道を見ると、道路が整然と整理され、主要都市には、大きな建物建物が並び、たくさんの人が行きかっていて、どれを見ても昔の面影はありません。
うっそうとした森林におおわれていた北の大地は、今では512万人もの人が住んでいます。
あの大原始林はどのように開墾されどのように道路が作られてきたのでしょう。
北海道の歴史、北海道の名前,北海道の道路について分かりやすくご紹介します。
北海道の歴史
北海道にいつ頃人が住み着いたのかは、はっきりしていません。
まだ北海道が大陸と陸続きであった時代ではないかと思われています。
氷河期から縄文時代へ
2万年ほど前の氷河期の時代には、間宮海峡や宗谷海峡を渡り、マンモスなどの動物群とともに人が北海道に渡ってきたと言われており、1万年ほど前から新石器時代、6・7千年前から縄文時代になったと推測さています。
この時代には、貝や木や縄を押し付けて模様をつけた粘土の土器を使う人たちが現れました。
北海道では、2千年前までは、狩猟・漁撈を中心とする縄文文化が、続いていました。
縄文時代以降の遺跡から、すでに津軽海峡を越えた本州との交流が行われていたことも伺えます。
アイヌ民族の住むのどかな時代
縄文文化は、その後も形を変えながらアイヌ文化に引き継がれていったのです。
13世紀頃から江戸時代にかけては、アイヌ民族独特の文化の時代が続きました。
この人たちは自然の恵みの多い北海道でのんびりゆっくりと暮らしていました。
川には鮭が群れをなし、海には鰊が押し寄せ、山には鹿が群れをなし、食物は豊富で敵に襲われることもない平和な毎日でした。
アイヌ民族が平和に暮らしていた頃の北海道は、蝦夷と呼ばれアイヌ民族もエゾと呼ばれていました。
この蝦夷地に和人が渡って来るようになったのは、西暦1200年頃で源頼朝の頃からです。
鎌倉幕府は、各地に代官を置きそれぞれの地方を納めさせました。
この蝦夷地にも津軽の豪族、安東氏(あんどううじ)が代官となって渡ってきました。
その頃和人が住んでいたのは、今の函館をはさんで西は江差付近のアツケベ川から東は汐首岬だったそうです。
和人たちの数が段々と増えアイヌ民族との間に色々なトラブルが起きシャクシャインの乱など和人とアイヌ民族との戦いが始まったのです。
江戸時代北前船による交易とニシン御殿
道南地方では、江戸時代には松前藩が栄え、交易によって藩の財政を支えていました。
北前船による大坂や堺との商取引やニシン漁業の基地として大いに繁栄しました。
その様子は、「江差の五月は江戸にもない」と謳われるほどでニシン御殿なども建てられました。
安政6年(1859年)には横浜・長崎とともに国際貿易港として箱館港が開港しました。
開港後は異国文化が入り、現在の函館・西部地区に見られる美しい街並みが形成されるようになりました。
明治初期・北海道開拓の時代
慶応4年(1868年)旧幕府軍海軍副総裁・榎本武揚が率いる旧幕府脱走軍艦隊が、仙台で新撰組を含む旧幕府陸軍と合流後、蝦夷地の鷲ノ木(現茅部郡森町)へ上陸。
戊辰戦争の最後の戦いとなる箱館戦争が始まったのです。
五稜郭を舞台に繰り広げられた箱館戦争は、明治2年(1869年)5月11日脱走軍が降伏したのです。
箱館戦争については、こちらをご覧ください。
そして明治維新後、本拠地を函館から札幌へと移し、開拓使が設置されて集団移住者や屯田兵たちが北海道の開発にあたりました。
屯田兵制度というのは、その昔北辺の守りとして北海道の警備に当たりながら、同時に開拓のくわを振るうという兵農一致の精神に基づいた北海道開拓時代独特の制度です。
海外から専門家を招いたことで、農業、加工業、建築、製鉄などが発達し、同時に開拓技術者の養成や、西洋式農業の導入によって、北海道の近代化を飛躍させました。
こうして現代の北海道の基礎が築きあげられていったのです。
北海道の名前はこうして付けられた
明治以前、北海道は「蝦夷地」(えぞち)と呼ばれていました。
「蝦夷地(えぞち)」とは「和人以外が住む土地」という意味で樺太とか千島列島も入っていたのです。
北海道の名前をつけたのは、幕末の探検家「松浦武四郎」です。
松浦武四郎は、北海道に6回も訪れ地図を作りました。
その武四郎は、6つの名前を考え明治2年(1869年)に道名に関する意見書を提出しました。
・日高見(ひだかみ) ・北加伊(ほっかい) ・海北(かいほく)
・海島(かいとう) ・東北(とうほく) ・千島(ちしま)
その中から選ばれたのが「北加伊」(ほっかい)でした。
加伊の字を「海」にして「北海」となったのです。
「加伊(カイ)」はアイヌの古い言葉で「この地に生まれた人」という意味を持つのだそうです。
すでに、東海道、西海道、南海道などがあったので、北海道という名称は、ごく自然な感じがするのではないでしょうか。
武四郎は、みずから「北海道人」と号していたこともあるので、結果的には、武四郎の雅号(がごう)が道名になったとも言えるでしょう。
明治2年(1869年)8月15日に太政官布告があり「蝦夷地 今より 北海道ト被稱(しょうされ)」と周知されたのです。 被稱は、中国から伝わってきた言葉で〝言う〟ということです。
こうして「北海道」という名前が付けられました。
北海道は47都道府県の中で唯一、「道」という行政区画名を用いています。
北海道だけが、「道〔どう〕」でひとつの行政単位になっているからだと考えられます。
「北海道」は、地名(東京、京都など)であると同時に、行政区分(東京都、京都府など)の呼び名でもあるので、「北海」と「北海道」という使い分けはありません。
北海道の道路の歴史
いま北海道を車で走ると真っすぐな広い道が続き、どこに移動するのにも困ることはありません。
しかしこの北海道の道路の本格的な整備は、明治時代になってから始まったのです。
明治以前の道路
人々が狩りや漁によって食料を得ていた時代の道は、獣の通り道をたどって出来た自然のしし道でした。
本州方面で稲作技術と金属器使用の弥生文化が広がってくると、集落と集落を結ぶ人口の貼り道が作られるようになったといわれています。
寛政10年(1798年)徳川幕府は、北海道の状況調査を進める必要から、巡察隊を派遣しました。
これに参加した近藤重蔵が、その途中十勝場所ルベシベツからビタタヌンケのあいだ約10キロの山道を開いたのが、北海道における道路開削の始めとされています。
その後幕府は、北辺の防備強化と産業開発のため道路の整備を重視しました。
また場所請負人や篤志家(とくしか)などの自費開削もありまして道路の新設が進められました。
礼文華山道や釧路・厚岸間の開削により享和3年(1803年)には、松前から根室、国後に至る太平洋側の道路が確保されました。
内陸では、木古内山道、岩内・余市間、千歳越えなどの開削を進め、駅逓が開所されて馬による荷役が始まりました。
嘉永6年(1853年)開国へと動き出した幕府は、全島にわたる直轄統治体制を整へ松浦武四郎らに命じ調査を進める一方道路の開削を促進しました。
特に遅れていた西蝦夷の道路づくりが活発になり黒松内山道、雷電越え、余市・銭函間、雄冬山道、札幌越えなどおおむねの道路が連絡可能となりました。
しかしこの頃の道路は、粗悪なため常に補修が必要でした。
明治以降の道路開発
明治に入り開拓使は交通の利便を図るために札幌街路計画や札幌本道など注目すべき開発が行われました。
札幌本道は函館・札幌間を結ぶもので明治6年(1873年)完成しましたがこれまでの道路とは異なり、一定既定の勾配と路面構造を持つ洋式馬車道路としてわが国では前例のないものでした。
この他、小樽・銭函間の道路や在来経路の改修、東本願寺をはじめ民間の寄付工事も盛んに行われて、おおむね全島一周の沿岸道路網が形成されました。
また豊平橋などの本格的な木橋が数多く設置されました。
明治19年(1886年)には、道庁が設置されましたが、この前年明治18年(1885年)には、日本で初めての国道指定があり、北海道は東京から函館・札幌・根室の3県に達する道路が指定されました。
明治21年(1888年)には、北海道の象徴的な建物である、あの赤レンガ庁舎が完成しました。
道庁初代長官・岩村通俊は重要施設の1つに道路の整備をあげ札幌を中心として、各主要地に通じる道路の開削を計画しその実現を図りました。
それまで小道に過ぎなかった沿岸道路や山道の改修が行われ、その大部分は、今日の主要幹線道路の原型となっていますが道路の構造は、人や馬の通行がかろうじて出来る程度のものが多かったようです。
工事には、囚人が使われ多くの死者を出しその悲惨さは、いまになお伝えられています。
その後も道路の改良には、力が入れられてきましたが、昭和27年(1952年)には、道路法が改正され昭和29年(1854年)ガソリン税を特定財源とする全国的な5ヶ年計画が実施されました。
道路の種類は、一級国道、二級国道(後の一般国道)、都道府県道、市町村道に区分されました。
北海道には特例が設けられ国道に関する費用は国が負担するほか、道道から20路線、市町村道路200路線が開発道路に指定され、戦前に引き続き国が事業の全般にわたり責任を持つ優遇処置がとられたのです。
昭和46年(1971年)高速道路が開通し、やっと北海道の道路も本州の水準に追いつきました。
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