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北海道の礎屯田兵の歴史!苦しい開拓と極寒の中での過酷な生活とは 

北海道開拓の恩人ともいえる「屯田兵」。

屯田兵制度というのは、その昔北辺の守りとして北海道の警備に当たりながら、同時に開拓の鍬を振るうという、兵農一致の精神に基づいた北海道開拓時代独特の制度です

夢を抱き北海道に渡ってきた屯田兵の長い歴史。
実際に北海道に来た後の住宅や食事などの生活。
暖かい地方から北海道に渡ってきての苦労なども紹介します。

北海道屯田兵の歴史

明治維新後の新政府で北海道に屯田兵の設置を主張したのは西郷隆盛と言われています。
彼の影響を受けた開拓使長官・黒田清隆により、明治7年(1874年)に屯田兵制度が制定されました。
翌年の明治8年(1875年)、札幌郊外の琴似に初めての屯田兵村ができました。

交通の便利な今のような時代とは違い、一家をあげて熊の住む北海道へ移住するということは仲々大変な決心であった事と思います。
当時兵舎を400戸建てる中、200戸だけをその頃小樽にありました北海商会が請け負ったのですが、全ての物資、食料の輸送は馬でしかできない頃でおまけに道は悪く輸送困難で、時々お米や味噌の切れることがありおかゆや囚人のつくった芋で命をつなぐような事もありました。
琴似兵村には、宮城・青森・酒田3県と北海道内からの志願者193戸、965人が移住したのです。

この制度の背景には、明治維新によって身分を失った士族の失業対策がありました。
士族に「兵」という誇りを持たせながら開拓という自活の道を開かせようとしたのです。
最初の頃の屯田兵は士族のみを対象としていましたが、しばらくしてその制限も緩み、平民出身の屯田兵が開拓の中心となっていきます。
明治32年(1899年)に制度が廃止されるまで、各地で37兵村、7,337戸、39,911人の屯田兵家族が本州各地から遠くは四国・九州の果からも全道にわたって入植してきたのです。

気候の良い本州から来た人たちばかりですから、家族部隊は下駄履きでカラコロと船から降りたそうです。
昼なお暗い原始林を見て一時は、あまりにも大きすぎる自然と変化の激しい気候に「早う帰してくれ」と泣き叫び、中には信玄袋を抱えたまま動かない人もいたそうです。

黒い軍服にいかめしいヒゲの大隊長はや隊長は、「何も心配するな、食べるものも家も農具も全部用意してある、サアー向こうを出るときの決心を忘れずに行こうなぁ。婆さん私についておいで」一人ひとりサアーサアーと肩を叩いたのでございます。

北海道で屯田兵が行った開拓

屯田兵として北海道に渡ってくると、最初は一町五反(1.5ヘクタール)の土地を政府からもらい、それを耕し終えますとその中から五反だけ政府に返します。
そうするとまた新しく一町五反もらえ、下士官は七町五反(7.5ヘクタール)まで、兵隊は五町(5ヘクタール)まで無料でいただくことが出来たそうです。

しかし、開墾の苦労は並大抵ではなかったと思います。
いまのように重機があるわけでなく、熊や狐が歩き回る原始林に入って。
木を切り倒し、根を掘り荒地を手作業で開いていく事は、余程の忍耐や、強い意志がなければ出来るものではありません。

大木の生い茂る土地を年寄も子供も力を合せて開墾し、手にはみるみる豆が出来、顔は日焼し風にさらされて、いつしか入植した当時の姿は何処へやら全くの別人のような姿になっていました。

現在のひらけた北海道を見ると屯田兵の話も夢の様です。
こうして入植した人達は、札幌地方・根室地方・上川地方の三ヶ所に分かれてそれぞれの地方の開拓に当たったのです。

屯田兵の応募資格と年齢制限

明治7年(1874年)屯田兵制度ができた当初は、士族に限定された応募資格が、明治23年(1890年)からは、平民も応募できるようになりました。
この時期を境に前期はほとんどが士族で、後期はほとんどが平民だったようです。

明治7年(1874年)屯田兵の応募資格年齢は、18歳から35歳まででしたが、明治18年(1885年)には、17歳以上30歳以下になりました。
これが、明治23年(1890年)に年以降は「17歳以上25歳まで」に定められたのです。
しかし、実際には、17歳未満や40歳以上の人もいたそうですから一人でも多くの屯田兵が欲しかったのでしょね。

屯田兵の過酷な生活

北海道に降り立った部隊は熊笹を分けて奥地の堀立小屋に入り、一週間に2回は一家の主人も軍服を着て銃を持ち演習に出かけたのです。

移住すると同時に移住手当と鍋・釜など日用品の一切から、7年間は食料も無料でした。
それで、米が切れると配給になるのは馬鈴薯・・・五升芋ばっかりでした。
朝、五升芋の食事を済ませ、五升芋の弁当を持ち、黒いラシャ服にわらじ脚絆履き、赤い帽子にゴボー剣を下げた一家の主人が、鉄砲を肩に担いで中隊本部まででかけ「道は630里、長門の浦を船出して」と唱いながら、「オイッチニー」「オイッチニー」と訓練をして歩いたのです。

屯田兵 住宅

棲んでいる家も、木張り小屋ですから隙間だらけです。
暖かい夏はまだしも、冬になると隙間から雪が入り、朝目が覚めたら体の上に雪が積もっていたこともあったようです。
もちろん、今のような暖をとるようなストーブは、当初なかったでしょうから寒さとの戦いもあったでしょう。
本州とは、寒さが違いますから本当に大変だったと思います。

屯田兵 食事

そして一年、二年と苦労して開拓した土地もだんだんと豊かになり、馬鈴薯、豆類が稔り、家も大きくなり、ランプも灯される様になりました。

大隊長は時々廻りに来て、ある時は馬からおりてお爺さんや子供達と一緒にトウモロコシを食べる事もあったそうでございます。

主食は主に玄米、馬鈴薯、エン麦で「屯田兵どうして食う、いも堀って食う、それで鉄砲持てるかい」などと云われていました。

笑い話ではなく、毎日おいもばかりでは、これもなかなか辛かったと思います。
「屯田兵どうしようもない。朝いも、昼いも、晩もいも。五升いも何度食うのかい、それでも鉄砲持てるのかい」と唱ったり「どうもいも腹で今日は、鉄砲が少々重うござる」「さよう、どうもいもいもしい事でござるな」などと会話がかわされたそうです。
また、家に残った家族は、いもやおかゆを食べながら一生懸命荒れ地の開墾に従事したのです。

こうした先人の苦労があって今北海道は、大きく開け農作物もたくさん作られる、実り豊かな大地になっています。

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