岩手県出身の日本の歌人として知られる石川啄木は、北海道に渡りこの函館や札幌でも暮らしたことがあります。
啄木は、明治40年5月(1907年)渋民村を出て函館に到着しました。
函館商業会議所の臨時職員になったり弥生尋常小学校代用教員をしながら同人雑誌の編集もしていました。
啄木は函館を第二の故郷といって、愛着を持って暮らしていました。
石川啄木の詩の中には、函館の風景や人々の姿がしばしば描かれています。
彼の作品は、その生活の中で感じた孤独や苦悩、そして美しさを表現しており、その中に函館の情景が織り込まれています。
石川啄木が愛した「函館市」には、観光に便利なホテルや旅館も多いです。
今回は、石川啄木がどうして函館に来たのか?
彼が暮らし愛した函館の石川啄木の像がある小公園。
また、景勝地函館立待岬にある石川啄木一族のお墓についてご紹介します。
函館に来た時には、ぜひ参考にしてくださいね。
石川啄木は、なぜ函館に来たの?
石川啄木は、明治19年(1886年)2月20日、岩手県南岩手郡(現・盛岡市)日戸村の住職の長男として生まれました。
翌年、一家で渋民村に移転しています。
中学校に入学後、先輩の金田一京助のすすめで雑誌「明星」を愛読し、その影響を強く受けました。
啄木の短歌が活字になったのは、明治34年(1901年)12月、「白羊会(はくようかい)」という短歌の会をつくり、25首を「翠江(すいこう)」の雅号で「岩手日報」に掲載したのが最初の作品です。
明治40年(1907年)渋民村で代用教員をしていましたが、ストライキを起こし学校にいれなくなってしましました。
当時、函館にあこがれを持っていた石川啄木は、明治40年(1907年)5月函館に来ました。
その時に詠んだ短歌が今でも有名な「石をもて追はるるごとくふるさとを出でしかなしみ消ゆる時なし」です。
函館での啄木は貧しい生活の中で詩に親しみ、商工会議所の職員、弥生小学校の代用教員、函館日日新聞社の新聞記者など、転々と食を変えて生活していました。
しかし、たまたま明治40年の大火にあい、「函館のかの焼跡を去りし夜のこころ残りを今も残しつ」という詩を最後にわずか120日の函館の生活に別れを告げ再び放浪の旅を続けたのです。
啄木は、恵まれなかった生活の中にも、函館の人と函館の自然に深く愛着を持ち、歌集「一握の砂」の中に数多くの詩を書き綴っています。
函館 石川啄木小公園
津軽海峡を見渡す海岸に、気をつけないと見過ごしてしまいそうなほど小さな公園があります。
『石川啄木小公園』です。
小さな公園ですが啄木の思いがギュッと詰まった公園です。
大森浜を通して立待岬が見える公園には、啄木の像があります。
若き日の啄木が頬杖を付き瞑想にふけっている様子を彫刻したものです。
啄木が腰を下ろしている御影石の台座には、「潮かをる 北の浜辺の砂山の かの浜薔薇よ今年も咲けるや」の一首が刻まれています。
同じ場所には、「西條八十」が啄木に捧げた歌を刻んだ碑もあります。
歌は、「眠れる君に捧ぐべき 矢車草の花もなく ひとり佇む五月寒 立待岬の波静か おもいでの砂 ただひかる 捧 啄木 西條八十」と書かれています。
この歌は、昭和30年(1955年)西條八十が函館に来た時に啄木ゆかりの立待岬を訪れ、薄幸の詩人にささげたものです。
ここから見える海岸は大森浜で、啄木が「白波の寄せて騒げる函館の 大森浜に思ひしことども」と歌っています。
またこの右手には、啄木の歌集「一握の砂」の中に書かれている砂山がありました。
「砂山は長くつづきて、水無月の日は照りかへり、砂は蒸す。
海草かいさうの香はいと強く流れぬ。
あはれ、日に酔ひて啼くなる鳥の磯雲雀、歌はも高し。
(啄木 水無月の一節)」
「砂山の砂に腹這い初恋の いたみを遠く思いつづる日」
「命なき砂の悲しさよ さらさらと握れば指の間よりおつ」
など、彼独特の哀愁と情熱をたたえており、啄木にとって第二の故郷となった函館は、どこを見ても歌にならないものは無かったようです。
函館 石川啄木の墓は立待岬に
函館山の南東に突き出ている津軽海峡に面した岬は、函館市の景勝地立待岬です。
この立待岬に啄木一族のお墓があります。
立待岬は、断崖絶壁で周りを海で囲まれアイヌ語の「ピウス」(岩の上で魚を待ち伏せして、ヤスで獲る場所)という意味です。
函館市内から見ると函館山の左端に位置し、海に突き出る形で海抜約30mの断崖がそそり立ちます。
大森浜から湯の川温泉街へと通じる海岸線 と、津軽海峡を一望できる絶景の場所で、かつては北方警備のため異国船の往来を監視する台場が造られ、明治時代には函館要塞の背後を防御する要塞が築かれたところです。
石川啄木の心の故郷函館、立待岬には啄木一族の墓があります・
啄木が函館を愛していたの事は、死後自分の骨を函館に埋めてくれ、といったことでも伺われます。
明治45年(1912年)4月13日、27歳の若さで東京でなくなりましたが、大正2年(1913年)3月、その心を汲み遺骨をこの立待岬へ移しました。
現在の墓碑は、大正15年(1926年)歌人として知られる、宮崎郁雨(みやざきいくう)等によって立待岬に建てられたものです。
宮崎郁雨は、石川啄木夫人の石川節子の妹の夫で義弟に当たる人です。
啄木の生前から啄木一家を物心両面にわたって支え、啄木の死後も啄木を語る会」を発足させるなどしています。
啄木一族が眠っている駒形のお墓。
墓石の前面には、北の岬に連なる宇賀の浦の砂山に思いを寄せて詩ったと言われるあの有名な「東海の小島の磯の白砂にわれ泣きぬれて蟹とたはむる」(一握の砂)の一首が彫り込まれているのです。
また、この墓碑の裏側には、啄木の義弟、宮崎郁雨に寄せた手紙の一節が刻まれています。
その中には「大丈夫だよしよし俺は死ぬ時は函館に行って死ぬ、この時こう思ったよ、どこで死ぬかはもとより解ったことではないが、僕はやっぱり死ぬ時は函館で死にたいように思う。 君、僕はどうしても僕の思想が時代より一歩進んでいるといううぬぼれをこの頃捨てることができない」。啄木がいかに函館に愛着を持っていたかがわかりますね。
啄木が残したノート、日記などの全部は、函館山の麓函館公園の中にある図書館に「啄木文庫」として保存されています。
機会があったら一度覗いてみてください。
函館 石川啄木のまとめ
岩手県出身の日本の歌人として知られる石川啄木は、北海道に渡りこの函館や札幌でも暮らしたことがあります。
啄木は函館を第二の故郷といって、愛着を持って暮らしていました。
石川啄木の詩の中には、函館の風景や人々の姿がしばしば描かれています。
生活の中で感じた孤独や苦悩、そして美しさを表現しており、その中に函館の情景が織り込まれています。
中学校に入学後、先輩の金田一京助のすすめで雑誌「明星」を愛読し、その影響を強く受けました。
啄木の短歌が活字になったのは、明治34年(1901年)12月、「白羊会(はくようかい)」という短歌の会をつくり、25首を「翠江(すいこう)」の雅号で「岩手日報」に掲載したのが最初の作品です。
当時、函館にあこがれを持っていた石川啄木は、明治40年(1907年)5月函館に来ました。
その時に詠んだ短歌が今でも有名な「石をもて追はるるごとくふるさとを出でしかなしみ消ゆる時なし」です。
たまたま明治40年の大火にあい、「函館のかの焼跡を去りし夜のこころ残りを今も残しつ」という詩を最後にわずか120日の函館の生活に別れを告げ再び放浪の旅を続けたのです。
津軽海峡を見渡す海岸に、気をつけないと見過ごしてしまいそうなほど小さな公園は、『石川啄木小公園』です。
大森浜を通して立待岬が見える公園には、啄木の像があります。
若き日の啄木が頬杖を付き瞑想にふけっている様子を彫刻したものです。
啄木が腰を下ろしている御影石の台座には、「潮かをる 北の浜辺の砂山の かの浜薔薇よ今年も咲けるや」の一首が刻まれています。
同じ場所には、「西條八十」が啄木に捧げた歌を刻んだ碑もあります。
歌は、「眠れる君に捧ぐべき 矢車草の花もなく ひとり佇む五月寒 立待岬の波静か おもいでの砂 ただひかる 捧 啄木 西條八十」と書かれています。
彼の歌は、独特の哀愁と情熱をたたえており、啄木にとって第二の故郷となった函館は、どこを見ても歌にならないものは無かったようです。
函館山の南東に突き出ている津軽海峡に面した岬は、函館市の景勝地立待岬です。
この立待岬に啄木一族のお墓があります。
啄木は、27歳の若さで東京でなくなりましたが、大正2年(1913年)3月死後自分の骨を函館に埋めてくれという心を汲み遺骨をこの立待岬へ移しました。
啄木一族が眠っているお墓は、駒形をしていて「東海の小島の磯の白砂にわれ泣きぬれて蟹とたはむる」(一握の砂)の一首が刻まれています。
また、この墓碑の裏側には、自分が死ぬときは、函館死にたいという啄木の義弟、宮崎郁雨に寄せた手紙の一節が刻まれています。
啄木が残したノート、日記などの全部は、函館山の麓函館公園の中にある図書館に「啄木文庫」として保存されています。
今回は、函館と石川啄木についてご紹介しました。
函館にゆかりのある石川啄木の足跡をたどるのも楽しいですね。
そういう方は、ぜひ足をお運びください。
「函館市」のまとめ記事は、こちらをご覧ください。
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