登別温泉(のぼりべつおんせん)は、「東洋一の温泉郷」「温泉のデパート」といわれています。
北海道内でもとっても人気のある温泉で、毎年たくさんの方が訪れます。
登別の温泉に入ったことがあるよ!という方もたくさんいらっしゃると思います。
「いい温泉だった」「たくさん種類があってビックリした。」「また入りたい」などいろいろな感想をお持ちの方も多いでしょう。
でも意外と知らないのが温泉の歴史ではないでしょうか?
今回は、登別温泉がどのように開かれて今のようなにぎやかな温泉街になったのか?
登別温泉が開かれる前の昔の様子。
登別温泉がどんな温泉場だったのかなど登別温泉の歴史についてご紹介します。
登別温泉の歴史は、太古の時代から
登別温泉の始まりは、約一万年もの昔。
この頃にあった火山活動によって地獄谷から温泉が湧出したのが始まりです。
登別温泉は、江戸時代から温泉地として知られていました。
しかし、和人が入植するずっと以前からアイヌの人たちは、この地で暮らしていました。
アイヌの人たちは、登別を『ヌプリペツ』と呼んでいました。
これは、〝白く濁った川〟または、〝霊験あらたかな川〟という意味です。
登別温泉街の中央を流れるクスリサンベツ川に、大湯沼から流れる大湯沼川という川が流れ込んでいます。
大湯沼は、登別温泉の源泉にもなっているお湯の沼ですからクスリサンベツ川にも温泉が流れ白く濁っていました。
アイヌの人たちは、この温泉を薬湯として使っていました。
この温泉があらゆる病気によく効くことを知っていたのでこの名がつけられたのでしょう。
登別温泉の歴史は古く1785年(天明5年)頃に、最上徳内(もがみとくない)がこの地を訪れ北方地域見聞記「蝦夷草紙」に次のような紹介文を載せました。
ノボリベッという小川有り、この川上に温泉湧き出て、流れ来るため白粉と紺青をかきたてるが如し、一日も水底の見ゆることなし
最上徳内
この時に初めて登別温泉が文献上に紹介されたのでございます。
これは、クスリサンベツ川の事だなと分かりますね。
1845年(弘化2年)頃には、北海道名づけの親である探検家、松浦武四郎がこの地に入りました。
松浦武四郎は、『東蝦夷日誌』の中で当時の温泉の様子を書いています。
『東蝦夷日誌』の中に武四郎は、この頃すでに温泉場に止宿所(ししゅくしょ)ができて、湯治人もいたと書いていました。
そして硫黄の匂いが強いこと、間欠泉がある事。
観音薬師の小堂があるけれど見えなくなるという事が書かれています。
多分地獄谷の白煙がすごいので見えないという事でしょうね。
当時はまだ道路などもなく、温泉に行くにもうっそうとした原始林の中のけもの道のような道を歩いて行ったのでしょう。
止宿所といっても掘っ建て小屋のような感じだったのでしょうね。
※止宿所(ししゅくしょ)は宿の事です。
松浦武四郎が登別温泉にきて12年後の1857年(安政4年)に、近江商人の岡田半兵衛が地獄谷で硫黄を採掘するためにこの地に入りました。
私費で道路の道路を開削をはじめました。
工事の人夫のための人夫用湯治止宿小屋も建設したのです。
岡田半兵衛が入植してから1年後の1858年(安政5年)に登別温泉の開祖といわれる滝本金蔵が登別に入りました。
滝本金蔵は、奥さんの佐多さんのひどい皮膚病の治療をするため。
登別に皮膚病にとっても効く温泉があるという噂を聞きつけてこの登別温泉へとやってきたのです。
湯治小屋を建て温泉には入り、佐多さんは完治しました。
これが今の第一滝本館の始まりです。
登別とアイヌ民族
アイヌの人たちは、この温泉を薬湯として使っていました。
この事でもわかるように、和人が入植するずっと以前からアイヌ民族は、この登別で暮らしていたのです。
そのことは、クマ牧場にあるユーカラの里や登別市にある知里幸恵 銀のしずく記念館を見てもわかることです。
ユーカラの里
ユーカラの里を見ると、明治初期のアイヌ民族の生活様式がよく分かります。
ユーカラの里にはたくさんのチセ(家)が建てられています。
このチセはアイヌ語研究で知られる金田一京助教授が監修したものです。
アイヌ生活資料館には、アイヌ民族の貴重な生活用具が展示されています。
・ポロチプ(大きな船)
アイヌ民族が使った大きな舟「ポロチプ」が展示されています。
アイヌ民族は、川で魚を取る時や川を交通路として、行き来するときに使われた丸木舟をチプと呼んでいました。
この船は、太い木を削りくり抜き船の形にしたものです。
川や海は、恐ろしい自然です。
アイヌ民族は、木を切り倒すときから出来上がるまで神(カムイ)に祈りをささげる儀式を何度も行いました。
・タマサイ(首飾り)
アイヌ文化独特の形をした首飾りもあります。
この首飾は、「タマサイ」といいアイヌ語で玉を連ねたものという意味です。
女性が儀礼のときに晴れ着とともに身につける首飾りです。
おもにガラス玉(アイヌ玉)で作られたもので、そのガラス玉は青、黒、白、黄、赤など色とりどりのものが使われています。
中には模様玉も多く含まれています。
その中央にある装飾品は「シトキ」と呼ばれ、日本の古い鏡、漆器類の蓋などが使われています。
「タマサイ」は母から娘にと伝えられるアイヌの女性の宝物(イコロ)でもありました。
その他にもエチュシ(酒差し)、エムシ(刀)など、アイヌ民族の生活を知ることができるものがたくさんあります。
・アイヌ民族が交易に使ったポロチプ(大きな船)
クマ牧場ロープウェイ乗り場の2階にもアイヌ民族が交易に使った大きな舟「ポロチプ」が展示されています。
全長11.4メートルあり200年ほど前までアイヌ民族が千島列島などとの貿易に使った船をアイヌ文化学術研究会が原寸大に復元してクマ牧場に寄贈されたものです。
樹齢190年余りのアカエゾマツをくり抜いて作られた船体は、荷物を積んで外洋航海しても大丈夫なように船の側面には板が貼られています。
知里幸恵 銀のしずく記念館
また、登別市には知里幸恵 銀のしずく記念館があります。
知里幸恵は、1903年(明治36年)この登別で生まれた少女です。
7歳から19歳まで旭川で暮らしました。
知里幸恵はアイヌで初めてアイヌの物語を文字化しました。
13篇のカムイユカラ(神謡)が収められている『アイヌ神謡集』の著者として知られていますが、19歳という若さで心臓病でこの世を去ったのです。
アイヌ文化を知里幸恵を通して伝えていくためにこの会館が作られました。
登別温泉の湯治
北海道は、千島列島と那須火山帯に覆われている関係で、温泉の数は日本一といわれております。
昔は、温泉といいますと湯治といって病気や怪我の治療に利用されている程度でしたが、現在では、殆どの方が浴用(お風呂)として利用されます。
さてその湯治、登別温泉では登別温泉の「湯治の祖」と呼ばれる滝本 金蔵(たきもと きんぞう)が妻の佐多さんは、ひどい皮膚病を治すために小さな湯小屋を建て湯治を始めました。
これが1858年(安政5年)ですからこの年が登別温泉で本格的な湯治を始めた年になります。
明治中盤から登別温泉は「社交場」として普及したようでただ温泉に入るだけではなく、人々の交流の場所として人気がありました。
その後の、湯治宿では「自炊」という考えが多かったようです。
1週間から4週間も宿泊して温泉に入るのですから、お部屋は借りて食事は自分で作っていました。
共同の流し場がついていてそこで食事を作るわけですが、湯治客同士でおかずを分け合うなんていう事もあったようです。
今では、近くのコンビニで食事を購入して素泊まりで泊まる。
食事付きだと宿泊料が比較的に安いお宿が湯治宿として名前があがってくるようです。
登別では登別温泉の奥座敷カルルス温泉など人気があるようですよ。
外国でも温泉はありますが、医療用に利用されることが多く、地熱発電、温室などにも利用されているようです。
日本のように、お風呂として使うのではなくプールのような感覚で使われることが多いようですね。
ですから観光地でも、外国人の入浴マナーについて問題になることもあるようです。
この登別温泉にもたくさんの外国の方がいらっしゃいますがお互いに気持ちよく温泉にはいりたいものですね。
湯治ができるお宿
湯治ができるカルルス温泉のお宿をご紹介します。
静かな温泉郷ですから登別温泉よりもゆっくり出来ていいとおしゃる方もいますよ。
森の湯 山静館
「森の湯 山静館」は、カルルス温泉にある宿です。
登別温泉街と違ってい山の中の静かな温泉です。
単純泉のお湯は、熱い源泉かけ流しのお湯と加水して丁度良い温度にしているお湯があります。
お湯がいいと人気があります。
創業当時から社長自ら腕を振るう鳥のたたき鍋が人気。
料理が美味しいと人気のお宿です。
登別カルルス温泉 湯元オロフレ荘
「登別カルルス温泉 湯元オロフレ荘」は、カルルス温泉湯元の宿です。
静かでゆっくり温泉にはいりたい方には最適なお宿です。
人気の温泉はこちらからご覧ください。
豪華な食事は、こちらからご覧ください。
登別温泉の歴史のまとめ
登別温泉は、約一万年もの昔に地獄谷から温泉が湧出しました。
それから途絶えることなく1日に1万トンという豊富なお湯が湧いています。
そんな登別温泉には、
機会がありましたら、登別のお湯に一度は浸かってみて下さい。
きっと、ここは北国 登別の湯と鼻歌の一つも出ますよ。
1785年(天明5年)頃に、最上徳内(もがみとくない)がこの地を訪れ北方地域見聞記「蝦夷草紙」に書くずっと以前にさかのぼります。
アイヌ民族は、『ヌプリペツ』〝白く濁った川〟または、〝霊験あらたかな川〟と呼んでいました。
アイヌの人たちは登別に住み薬湯として登別温泉を使っていたのです。
それは、ユーカラの里や銀のしずく記念館を見てもわかります。
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