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碁盤の目の街並みを造った島義勇の功績!札幌市の歴史をひもとく 

西南には手稲、藻岩の山々かそびえたち、市内は大通公園と創成川を基準として「東西南北」一定間隔に区画され、 詩情豊かなアカシヤの並木がうるおいを与え、政治、経済はもとより都市の美しさに於ても北海道の首都に恥じない貫録を見せております。

北海道の道庁所在地札幌市は、肥沃な石狩平野の西南部に位置しています。
「東京」「横浜」「大阪」「名古屋」に次ぐ5番目の人口を数え、日本最北の政令指定都市となり、200万人もの人が住む大都市です。
北海道の総人口は、およそ515万人で、北海道の人口の四分の一が札幌市に住んでいます。

「札幌市」おすすめホテル3選
札幌市保養センター駒岡
札幌市郊外にあり自然に囲まれ、シニア世代や障がい者の方にも優しく皆様にくつろいでいただける施設です/地下鉄南北線 真駒内駅より中央バス3番のりば駒岡線(南92番)にて約10分
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そんな、札幌は今から150年ほど前は、うっそうとした樹木に覆われた昼なお暗い原始林に熊や鹿、狸等のすむ未開発地帯でした。

明治に入り屯田兵がこの地に入って北海道の本格的な開拓が始はじまりました。
この頃、札幌に住んでいたのは、わずかなアイヌ部落の中に豊平川附近で渡し守をしていた志村鉄一と猟師の吉田茂八という和人の家族7人が住んでいたに過ぎませんでした。

そんな未開の土地が今のように変貌したのは、先人の努力と計画的に進められた街づくりがあってのことです。

今回は、札幌市の歴史ときれいに区画された道路と北海道開拓の礎となった島義勇(しまよしたけ)についてご紹介します。

札幌市の歴史

蝦夷地(えぞち)と呼ばれていたこの大地に住むのは、アイヌ民族でした。
アイヌの人たちは、「サッポロペツ」と呼んでいました。
乾いた大きな川という意味で、市の中程を流れている豊平川が石狩川に注ぐ川口が大きな湿地帯であったのでこのように呼ばれていたのです。

安政3年(1856年)、佐賀藩主の鍋島直正は、蝦夷地開拓を企ていました。
直正の信頼が厚かった藩士の島義勇は、当時の未開拓地だった蝦夷地(現在の北海道)の探検に随行しました。
厳しい寒さの中、約2年に渡って北の大地を歩き続け、その調査結果を「入北記」としてまとめたのです。

明治元年(1868年)、蝦夷地と呼ばれていた北海道を国の手で開拓することになり、明治2年(1869年)8月15日に「蝦夷」が「北海道」と改称されたのです。

明治2年(1869年)北海道開拓使が設けられ、元佐賀藩主、鍋島直正が初代開拓使長官として任命されました。
島義勇は、いまなでの経歴を買われ開拓使判官に就任しました。

明治7年(1874年)に開拓使長官・黒田清隆により、屯田兵制度が制定され、翌年の明治8年(1875年)、札幌郊外の琴似に初めての屯田兵村ができ多くの屯田兵が入植したのです。

屯田兵制度というのは、その昔北辺の守りとして北海道の警備に当たりながら、同時に開拓の鍬を振るうという、兵農一致の精神に基づいた北海道開拓時代独特の制度です

北海道の開拓は、屯田兵とともに進められました。
人々は遠大な札幌建設計画に基づいて、明治13年(1880年)手宮と札幌を結ぶ鉄道が開通し、さらに明治21年(1888年)には赤レンガの愛称で親しまれる北海道庁舎が完成しています。
こうして、道都・札幌は築かれたのです。

札幌市の街並みは、どうして碁盤の目になったのか?

 

 

 

 

 

 

 

札幌市の街並みを見ると中心部は、東西南北が真四角に区画されいるのが分かります。
明治の文豪徳冨蘆花が、熊とアイヌだけの北海道を胸に描きながら初めて札幌駅に降り立った時、思わず「北海道の京都だ」とさけんで、この町の美しさを賞めたたえたと云われています。

並本の多い真四角にくぎられた京都の街、それにも増して札幌は美しく、行く町、歩む町、全てが整然として緑したたる街路樹に覆われているのです。

この美しい碁盤の区画の礎となったのが、開拓使判官に就任した島義勇です。

明治2年(1869年)開拓使判官に就任した島義勇は、その年130名の職工と共に函館の港に上陸。
陸路函館から銭函に入り、きびしい自然と戦いながら北海道の中心地、札幌の建設が始められたのです。
この時に、案内役を務めたのが当時札幌に7人しかいなかった、渡し守の志村鉄一であり、宿泊所が吉田茂八でした。

まず行われたのが、背中に背負って運んだ開拓三神を祀る札幌神社の建立です。
札幌市北5条東1丁目に仮宮殿を設け「一の宮」と名付けました。

島義勇は、円山の丘からはるか東方を見渡し、まちづくりの構想を練ったといわれています。
丸山から眺める市内の町並みは、京都の嵐山からの眺めに似ているとの事です。
札幌の道路計画は、平安京の時代碁盤の目のようにつくられた、京都の街に似せて考えられたのです。

まだ住む人がほとんどない、まして道路も建物もない時代です。
その構想は、碁盤の目状の区画図の作成から始まり、これがのちの札幌市の基盤となっているのです。
中心となっているのは、現在の大通公園と創生川で、大通公園を中心に南北・創生川を中心に東西に作られました。

本州方面と気候風土の違う場所での開拓は大変な事業でした。
未開の地に雄大な札幌建設の計画は、計画通りに行かず島判官は莫大な費用をわずか3ケ月で使い果し、費用の調達を巡って政府と対立してしまいました。
翌年1月には、志し中場で判官の職を追われてしまったのです。
でも、いまでも札幌市の歴史の上には永遠の光となって残っています。

札幌市の歴史に登場する人物

島義勇が、開拓使判官に主任したのが明治2年(1869年)翌年3月には、志し中場で判官の職を追われてしまいました。

そして、島判官の後を引継いだのが岩村通俊(いわむらみちとし)です。
岩村通俊判官は、道路を作り橋を架け必要な施設の建設を進めましたが、随所に島義勇の構想が継承されました。
開拓使の仮本庁舎、本陣(宿舎)、仮宮、創成橋を始め偕楽園の建設にも着手しました。

黒田清隆は、明治3年(1870年)三代目の開拓使長官に就任しました。
明治4年(1871年)1月から5月までのアメリカ留学を終えた開拓次官黒田清隆は、ケプロンを始め外人技師を伴って帰国し、積極的な建設に取りかかり排水工事、農業指導と改良、創成川の開削などの大工事を進め、さらに官営工場や学校を設置したのです。
明治7年(1874年)に屯田兵制度が制定され札幌郊外、琴似、山鼻、自石に屯田兵開拓者が数多く入植し、名実ともに北海道の政治、経済、文化の中心地となり、大正11年(1922年)市制が施かれたのです。

島判官が雪の広野に開拓の″おの″を打ち込んでから150年、岩村判官が″御用火事″として古い建物を焼き払った街並もビルの林に変り、

昭和47年(1972年)冬期オリンピックの開催され、高速地下鉄や集中暖房の建設なども一気に加速されました。

テレビ塔の展望台などから見下ろせば、緑のベールに包まれた全市を眺めることができ、西に円山公園、南に中島公園、北はエルムの学園北海道大学にその附属植物園、東に流れる清流豊平川、そして市の中心を芝生や花壇で彩る大通公園などをみると、うっそうとした原始林に開拓者が入り、根の張る大木を1本、1本抜き掘り起こしなどの開拓、そんな話も忘れそうになりますが、この方たちの力なしでは今の札幌市はなかったでしょう。

札幌で道産子が泊まってみたいホテル

地元の道産子が止まってみたいと思っているホテルをご紹介します。

札幌グランドホテル

札幌では、誰もが知ってる老舗ホテル「札幌グランドホテル」です。
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美味しい食事も人気の秘密ですね。

市の中心部にあり地下街直結でJR札幌駅まで続いていますからとっても便利です。

札幌プリンスホテル

「札幌プリンスホテル」は、札幌中心部なのに天然温泉に入れるホテルです。
泉質は、ナトリウム・カルシウム-塩化物泉です。
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「日本新三大夜景都市」の認定都市の札幌市の夜景が見れるお部屋も人気です。

大通公園近くにありますから雪まつりなどのイベントに行くのには便利です。

札幌市の歴史のまとめ

道庁所在地札幌市は、「東京」「横浜」「大阪」「名古屋」に次ぐ5番目の人口を数え、日本最北の政令指定都市となり、200万人もの人が住む大都市です。
札幌は今から150年ほど前は、うっそうとした樹木に覆われ昼なお暗い原始林に、熊や鹿、狸等のすむ未開発地帯でした。
明治に入り屯田兵がこの地に入って北海道の本格的な開拓が始はじまりました。この頃、札幌に住んでいたのは、わずかなアイヌ部落の中に和人の家族7人が住んでいたに過ぎませんでした。

アイヌの人たちは、市の中程を流れている豊平川が石狩川に注ぐ川口が大きな湿地帯であったので「サッポロペツ」と呼んでいました。
安政3年(1856年)、佐賀藩主の鍋島直正の命を受けて島義勇は、当時の未開拓地だった蝦夷地(現在の北海道)の探検に随行し、厳しい寒さの中、約2年に渡って北の大地を歩き続け、その調査結果を「入北記」としてまとめたのです。
明治元年(1868年)、蝦夷地と呼ばれていた北海道を国の手で開拓することになり、明治2年(1869年)元佐賀藩主、鍋島直正が開拓使長官として北海道の開拓にのり出し、島義勇は、その経歴を買われ開拓使判官に就任しました。
明治7年(1874年)に開拓使長官・黒田清隆により、屯田兵制度が制定され、翌年の明治8年(1875年)、札幌郊外の琴似に初めての屯田兵村ができ多くの屯田兵が入植しました。

札幌市の街並みを見ると中心部は、東西南北が真四角に区画されいるのが分かります。
明治2年(1869年)開拓使判官に就任した島義勇は、円山の丘からはるか東方を見渡し、まちづくりの構想を練ったといわれています。
丸山から眺める市内の町並みは、京都の嵐山からの眺めに似ているとの事で、京都の街に似せて考えられたのです。
その構想は、碁盤の目状の区画図の作成から始まり、これがのちの札幌市の基盤となっているのです。
中心となっているのは、現在の大通公園と創生川で、大通公園を中心に南北・創生川を中心に東西に作られました。
未開の地に雄大な札幌建設の計画は、計画通りに行かず島判官は莫大な費用をわずか3ケ月で使い果し、費用の調達を巡って政府と対立してしまいました。
翌年1月には、志し中場で判官の職を追われてしまったのです。

島判官の後を引継いだのが
岩村通俊(いわむらみちとし)です。
岩村通俊判官は、道路を作り橋を架け必要な施設の建設を進めましたが、随所に島義勇の構想が継承されました。
開拓使の仮本庁舎、本陣(宿舎)、仮宮、創成橋を始め偕楽園の建設にも着手しました。

黒田清隆は、明治3年(1870年)三代目の開拓使長官に就任しました。
明治4年(1871年)1月から5月までのアメリカ留学を終えた開拓次官黒田清隆は、ケプロンを始め外人技師を伴って帰国し、積極的な建設に取りかかり排水工事、農業指導と改良、創成川の開削などの大工事を進め、さらに官営工場や学校を設置したのです。
明治7年(1874年)に屯田兵制度が制定され札幌郊外、琴似、山鼻、自石に屯田兵開拓者が数多く入植し、名実ともに北海道の政治、経済、文化の中心地となり、大正11年(1922年)市制が施かれたのです。

ビルが立ち並ぶ今の札幌の姿を見ると、うっそうとした原始林に開拓者が入り開拓したという話も忘れそうになりますが、この方たちの力なしでは今の札幌市はなかったでしょう。

札幌を訪れた時には、参考にしていただけたら嬉しいです。

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