「中山峠」は札幌市定山渓温泉と喜茂別町を結ぶ峠で石狩管内と後志管内の境界になっています。
国道230号線が走り交通の要所となっています。
きれいな森林や、羊蹄山、ニセコ連山を見ながら洞爺湖へ向かう快適なドライブコースです。
でも以前は急カーブ急こう配の続く峠で、道幅は狭く舗装もされていないという道でした。
よっぽどのことがないと通りたくないといわれるほどの難所でした。
北海道は、明治になった頃はまだほとんど道路らしい道路もありませんでした。
うっそうと生い茂る大森林だけが続いていました。
この大森林のなか、中山峠の道がどのように出来、どのようにして現在の姿になったのか詳しくお話ししたいと思います。
中山峠の歴史
中山峠の頂上は、後志管内と石狩管内の境界になっていて、標高836メ―トルあります。
お天気がいいと延々と果しなく続く樹海、その上を波のように連なる山々が見えます。
札幌から洞爺までの中山峠がはじめて道路として整備されたのは、明治4年(1871年)開削された本願寺道路からです。
改修工事もされてきましたが、戦後に自動車の往来が増えてくると道幅も狭く見通しも悪いため、車がすれ違うこともできませんでした。
どちらかが止まって待ってやっとすれ違う、区間によっては転落事故が相次ぎ、「魔の山道」と呼ばれるほどでした。
特にひどかったのは、札幌側の薄別から中山峠までの8キロの区間です。
この8キロの区間に128ヶ所のカーブがあり勾配もきつかったため、引き返す人もいるほどの難所でした。
中山峠を含む国道230号の全面改修工事は、昭和32年(1957年)から行われました。
定山渓から中山峠までの区間は地形が複雑で地質も悪く、すぐに工事ができなかったので昭和38年(1963年)から工事が開始されました。
国立公園内を通過することもあり木を切ることを最小限に抑え、トンネルや覆道などのにも景観へ配慮した設計のものが採用された設計でした。
定山渓側の新道工事は、7年もかかり昭和44年(1969年)10月3日に完成しました。
昭和32年から始まった工事は、12年の歳月を経てやっと全面開通したのです。
中山峠の旧道は本願寺道路
札幌から洞爺湖までの国道は、230号線は現在のような立派な道路ができる前は、東本願寺というお寺が開削したため、本願寺道路という呼び名で長い間したしまれておりました。
明治元年(1868年)新政府は、北方から外国が侵入する危険を憂慮し北海道を開発する事にしました。
そのために道央のサッポロに中央官庁を設置することになったが内陸には道路はありません。
そこでサッポロへの新道切り開きが北海道開発の急務となりました。
しかし新政府は幕末からの戊辰戦争のため収入が乏しく財源がありませんでした。
そこで新政府は東本願寺に道路をつくるように懇請してきたのです。
明治3年(1870年)2月、19歳の大谷光螢上人ら一行78人は、京都を出発し函館に上陸したのです。
北海道に渡ってすぐに調査が進められ、工事にかかったのが翌年の春で、わずか一年半で完成するというスピードぶりでした。
東本願寺が北海道に作った道路は、この他三路線で、その中でも札幌から伊達までの区間が一番長く、費用も多く使ったそうです。
その頃、伊達に移住してきたばかりのお侍やアイヌの人達など、約200名の人を使って工事を始めたのです。
明治の始めであり、あまり人の住んでいなかった当時の事、働く人手を集めるのにも大変な苦労があったようです。
お坊さんまでが数珠を持つ手にオノを握り、本を切ったり土を運んだりしたそうで、けわしい山坂、熊や狐も横行する中で、九い頭に汗を流し、衣のすそをまくってモッコをかつぐ姿が見られたとのことです。
約100キロの道に架けた橋が113ヶ所、このために使った費用が1万八千両といいますから、現在のお金にして何億になりましょうか?
それも国の費用でなく、お寺が作ったというのですから、驚くではありませんか。
北海道移民をすすめるために、次のような歌が歌われていたということです。
「トトさん、カカさん、ゆかしゃんせ
うまい魚もたんとある
おいしい酒もたんとある
未来往生の親様の
エゾ地へまでも御苦労を
はたからながめていられよか
高き所はさつまいも
低き所は米や麦
心のままの御開拓
お前よければ我もよい
何んの遠慮があるものか
ャヤが出来たらなおよかろ
エゾエゾ エゾエゾ えじゃないか」
このような歌にさそわれて、未開の地、北海道に渡り開拓された祖先の苦労を決して忘れることはできません。
開拓の苦労があってこそ、現在の北海道があるのです。
中山峠 クロソイド曲線
安政5年(1858年)松浦武四郎が洞爺湖をへて札幌に来たときに、
「この川に従い虻田、有珠に道を開かば、その便利いかばかりならん」
とエゾ日誌の中に書いていました。
それから120年、中山峠新道は幾多の時代を経て、昭和44年(1969年)秋に観光ルート、高速性と数々の夢をのせ開通しました。
定山渓から中山峠の間の延長17・4キロで、以前の道路と比較しますと、距離にしてわずか1キロほどしか短縮されていないのですが、カーブが少なく勾配もゆるく、さらに全面舗装されましたので、時間にしますと従来の半分くらいに短縮されました。
それだけに工事も大がかりなもので、近代科学の大型機械が活躍し、当時の金額で60億の巨額な費用がかかっています。
クロソイド曲線が採用されているので全国的に珍らしいカーブのある橋があったり、雪崩やがけ崩れを防ぐ覆道、外の景色をそこねないようにとトンネルでなく回廊にするなど、苦心のあとが各所に見られます。
クロソイド曲線は、滑らかにハンドルを回して曲線区間を走行できるように、直線と円とを繋ぐ間に緩やかなカーブな入っているので急カーブに感じない。
急ハンドルを切ることなく走行できる道です。
中山峠の美味しい味
中山峠の美味しい味をご紹介します。
道の駅 望羊中山
中山峠といったら、道の駅のあげいも。
塩味が付いた男爵イモに特製の衣をつけて揚げたもの。
3個も串に刺さっているのでボリューム満点です。
あげいもの詳しいことは、こちらをご覧ください。
峠の茶屋
国道230号線をはさんで道の駅の斜め向かいにあります。
実はここのお店は、洞爺湖のサイロ展望台の「Cafe balher」と同じ系列店。
「洞爺湖ハーバルランチ」というハーブを育てている会社のお店ですからハーブティとかアイスクリームも美味しいですよ。
もちろんこちらもじゃがいもあります。
名前は「あげじゃが」です。
定山渓温泉の老舗ホテル鹿の湯
明治30年10月。札幌の名士14人の出資により開業した鹿の湯寒翠閣が「定山渓温泉 ホテル鹿の湯」の前進です。
この時からコンコンと湧き出る温泉が自慢のホテルです。
新しくできた国産ひのきのサウナも人気なんですよ。
和洋約50品もあるビュッフェも美味しいと人気です。
中山峠国道230号線のまとめ
「中山峠」は札幌市定山渓温泉と喜茂別町を結ぶ峠で石狩管内と後志管内の境界です。
国道230号線が走りま。
以前の路は急カーブ急こう配の続く峠で道幅も狭く舗装もされていないという難所でした。
中山峠は、標高836メ―トルお天気がいいと延々と果しなく続く樹海、その上を波のように連なる山々が見えます。
中山峠がはじめて道路として整備されたのは、明治4年(1871年)開削された本願寺道路からです。
改修工事もされましたが特にひどかったのは、札幌側の薄別から中山峠までの8キロの区間です。
この8キロの区間に128ヶ所のカーブがあり勾配もきつかったため、引き返す人もいるほどの難所でした。中山峠を含む国道230号の全面改修工事は、昭和32年(1957年)から行われました。
定山渓から中山峠までの区間はすぐに工事ができなかったので昭和38年(1963年)から工事が開始されました。
定山渓側の新道工事は、7年もかかり昭和44年(1969年)10月3日に完成しました。
昭和32年から始まった工事は、12年の歳月を経てやっと全面開通したのです。
札幌から洞爺湖までの国道は、230号線は東本願寺というお寺が開削したため、本願寺道路という呼び名で呼ばれていました。
工事にかかってから、わずか一年半で完成するというスピードぶりでつくられました。
伊達に移住してきたばかりのお侍やアイヌの人達など、約200名の人を使って工事を始めたのです。
明治の始めであり、あまり人の住んでいなかった当時の事、働く人手を集めるのにも大変な苦労があったようです。
定山渓から中山峠の間の延長17・4キロで、以前の道路と比較しますと、距離にしてわずか1キロほどしか短縮されていないのですが、カーブが少なく勾配もゆるく、さらに全面舗装されましたので、時間にしますと従来の半分くらいに短縮されました。
クロソイド曲線が採用されているので全国的に珍らしいカーブのある橋があったり、雪崩やがけ崩れを防ぐ覆道、外の景色をそこねないようにとトンネルでなく回廊にするなど、苦心のあとが各所に見られます。
中山峠をドライブするときには、頂上であげいもを食べて羊蹄山のきれいな姿を見る。
あとは、先人感謝しながら快適な道を楽しみたいですね。
定山渓には、ほかにも見どころがたくさんあります。
定山渓温泉・豊平峡温泉・定山渓ダムのまとめ記事は、こちらをご覧ください。
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