洞爺湖畔で噴煙を上げる活火山!昭和新山と有珠山その噴火活動は?

ガイド歴20年 ゆめ
ガイド歴20年 ゆめ

皆様、おはようございます。

本日は、洞爺湖畔にある2つの活火山。
20世紀に4回も噴火した有珠山と世紀の奇蹟と世界に話題をまいた昭和新山をご案内いたします。

途中、重なり合うように並ぶ二つの山をご覧いただきながらのコースでございます。
バスの後方には、広々と広がる洞爺湖をご覧いただく事ができます。

そろそろ出発のお時間でございます。

準備が出来ましたらに昭和新山に向かってバスを進めてまいります。

発車オーライ!!

洞爺湖有珠山ジオパーク

洞爺湖有珠山ジオパークは、平成21年(2009年)8月22日、新潟県糸魚川・長崎県島原半島とともに国内で初めての世界ジオパークに認定されました。
世界レベルの自然公園として、その価値と取り組みが認められたのです。

洞爺湖有珠山ジオパークは、洞爺湖及び有珠山を中心とし、伊達市、豊浦町、壮瞥町、洞爺湖町にひろがるジオ(大地)パークです。

洞爺湖有珠山ジオパークでは、約11万年前の巨大噴火でできた洞爺湖、約2万年前の火山活動でできた有珠山など、繰り返される火山活動により変動する大地の姿を体感することができます。
また、縄文の人々の暮らしが分かる遺跡やアイヌの人々の生活の証なども多く残され、火山と共生してきた人々の歴史を見ることもできます。

地質・地形から地球の過去を知り、未来を考えて、活動する場所です。
ジオパークとは、地球科学的意義のあるサイトや景観が保護、教育、持続可能な開発のすべてを含んだ総合的な考え方によって管理された、1つにまとまったエリアです。ジオパークとは、地球科学的な価値を持つ遺産を保全し、教育やツーリズムに活用しながら、持続可能な開発を進める地域認定プログラムである。
ジオパークは、地球・大地を意味するジオと公園を意味するパークとを組み合わせた言葉である。

日本ジオパークネットワーク

有珠山

昭和新山と向い合って褐色の山肌を見せておりますのが、標高737メートルの有珠山でございます。

アイヌ語でウㇲ(入江)という意味でございます。
この入江とは現在の伊達市有珠町の噴火湾沿岸の入り江のことを指しています。

2万年ほど前に形成され、約7〜8千年前の山体崩壊で現在の姿に近くなりました。
有珠山の火山活動は、有史以降たびたびあり、確かな記録として残っているだけでも六回を数えています。
20世紀には、明治43年(1910年)、昭和18年(1943年)、昭和52年(1977年)、平成12年(2000年)と4回も噴火をした活火山です。
噴火の度に大有珠、小有珠、おがり山、四十三山、昭和新山などの山々が新しくでき、洞爺湖温泉を観光地として発展させてきたのでございます。 

昭和19年の昭和新山の爆発自体が、有珠山の火山活動だったのでございます。
さて、この昭和新山が硫黄の採掘などで荒らされることを心配して、 山ごと買い取った人がありました。

その方は三松正夫さんと言います。                 
三松さんは、この洞爺湖の温泉を発見した人でもありますが、この当時は壮瞥の郵便局長でした。
三松さんは青年時代、明治の有珠山の爆発も経験しており、戦時中のことでしたのでフイルムも自由に手に入らず、自分で写生をしました。   
これには三松さんの普段の絵心が大変役立ちました。
そして後にこの記録は、万国火山会議に発表され「三松ダイヤグラム」として大変評判となりました。

三松さんにしてみれば、この昭和新山は、我が子の様に可愛くてたまらなかったでしょうが、
昭和52年の有珠山の爆発は、その完全な終息を見ないで昭和52年12月8日89歳で亡くなりました。

「災害は忘れた頃にやってくる」と、有名な言葉がありますが、北海道随一の観光地を誇る洞爺湖畔にそびえる有珠山は、昭和52年(1977年)8月7日、昭和新山の爆発以来32年ぶりに噴火し、その活火山としての健在ぶりを見せつけました。

前日は、昭和新山で花火大会があり何度となくある、有感地震に地元の人たちも昭和新山が噴火するんじゃないかと不安を募らせていましたが、噴火したのは有珠山でした。

この噴火では、噴煙は12,000メートルの高さまで達し、吹きあげられた噴煙は、遠く網走まで達し道内の半分近くの市町村を覆いました。
泥流災害も発生死者2名、行方不明者1名、軽傷者2名、住家被害196棟、非住家被害9棟、農林業・土木・水道施設等に大きな被害をだし、翌年の昭和53年(1982年)3月まで活動は続きました。

一番最近の噴火は、平成12年(2000年)3月31日西山西麓からマグマ水蒸気噴火が発生し火口周辺に噴石を降らせました。
噴煙は、高さ3500mまで達し千歳市でも微量の降灰がありました。
4月中旬まで、小規模な水蒸気噴火を繰り返し、西山西麓と金比羅山周辺に計65個の火口ができました。
4月中旬以降、活発な火口は4つに限定されましたが、西山西麓ではマグマにより最大約80m隆起してドームが形成されました。
小規模な噴火でしたが、道路や下水道が寸断されるなど850戸の家屋に被害がありました。
た。

今なお続く火山活動、おおよそ20年から30年の周期で噴火を繰り返していますので、気象庁では、地震計、傾斜計、空振計、GNSS、監視カメラを設置し、常時火山活動の監視・観測を行っているのです。

有珠山に行った方のつぶやきはこちら>>

昭和新山

世紀の奇蹟と世界に話題をまいた昭和新山が見えております。
あのような小さな山がなぜ世界的に有名になったのでしょうか。

あらゆる山は、人間がこの地球上に住む以前にできたものです。
しかしこの山は、私達の目の前で造られ、地震、地割、隆起、噴火と山のできる過程が、多数の学者によって詳しく観察研究されたことです。


それは、暮もおしせまった昭和18年12月28日夕刻のできごとでした。
火山活動をしていた有珠山周辺に突然、烈しい地震がおこり、何日も続き、ひどい時には、1日に206回もぶきみな音とともに地面が揺れ動いたのです。
それは、一時おさまりました。

昭和新山 噴火の様子

激しい揺れから半年後の昭和19年6月23日になって、平地であった麦畑の中に大爆発音とともに直径40メートルほどの火口ができ、附近一帯約300ヘクタールの林や畑を灰の山にし、しだいに隆起しなから一個の火山を造ったのです。

そして同じ年の12月には.噴煙を上げる山頂から三角形の熔岩塔が現れ、20年9月20日、周囲4,610メートル、標高295メートルの新しい山に、高さ110メートルの熔岩塔を押し上げ活動を停止したのです。
その期間わすか1年9ヶ月のできごとでございました。
このような型の火山をベロニーテ型といいます。

この山ができた頃は、太平洋戦争の末期であったために、軍部はこの地の変動を不吉なものとして報道を禁していたため、一般には知られておりませんでした。
しかし、周辺の住民は大きな打撃をうけ、復興には多くの年月を要したのでございます。

その当時、壮瞥郵便局の局長であった三松正夫(みまつまさお)さんは、この山ができると同時に買い受け、毎日丹念に状況を記録し記録したスケッチを元に「新山隆起図」を作成しました。
昭和22年(1947年)ノルウェーのオスロで開かれた世界火山会議に貴重な研究結果をまとめ発表しました。
これが、ミマツダイヤグラムと名付けれ賞讃されたのです。

この研究結果は、三松正夫記念館に収められ展示されています。

昭和新山の白煙

昭和新山の赤色に見える山肌は、昭和新山が出来る前の土壌が溶岩の熱で焼かれて煉瓦のように固まった、天然レンガでございます。
天然のレンガ覆われている溶岩ドーム部分の地表の温度は、現在でも高いところで100℃ほどあるそうです。

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ガイド歴20年<br>ゆめ
ガイド歴20年
ゆめ

皆様お疲れ様でございます。

今回は、洞爺湖畔にある2つの活火山有珠山と昭和新山をご案内いたしました。

いかがでしたでしょうか?

白煙たなびく活火山、大地の躍動を感じていただけたのではないでしょうか?

さて、そろそろお別れのお時間となります。

お忘れ物がございませんようにご注意ください。

また、元気にお会いできる事を楽しみにしております。

それではその時まで、したっけね~

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